あずさジャーナル
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国労の闘士とのお別れ

2019.04.09

窓の外を中央線が通過するたびに、事務机が小さくカタカタと揺れる。ここはまるで駅のようだ、と思った。

明日から新年度という日曜日の夕暮れ、私は電車の音を聞きながら事務机のクリアカバーに挟んである写真を眺めていた。真夏の秋川の河川敷で撮ったその写真のなかでは、国労八王子の田中委員長、小平の中江みわ市議、私、そして横森書記長が笑顔で並んでいる。交運労協主催のバーベキューに参加した時の記念だ。事務机は横森さんの仕事用のもので、私は横森さんがこの写真をこんなふうに机に飾ってくれていることを初めて知った。写真の横には、最新のベアの数字がメモされた紙が挟んであった。

国労八王子地区本部の横森書記長が急逝された翌日、訃報を受けて家を飛び出した私は、家から歩いてすぐの国労の事務所へ向かった。線路のすぐ脇にある国労の建物は、まるでそれ自体がひとつの駅のようだ。いつもこうして電車の音に囲まれて仕事をしておられたのだなと思うと、仲間思いの横森さんの心情が伝わってくるような気がした。

横森さんは3月30日の夕刻、事務所で作業をしている最中に倒れて亡くなった。55歳の若さだった。倒れた時に割れてしまった黒いフレームのメガネも机の上にそっと置かれたままで、組合役員の皆さんがあちこちに訃報の連絡をなさったりご葬儀の準備で打ち合わせに走ったりしておられるなか、私はぼんやりとそのメガネを眺めていた。

横森さんに初めてお会いしたのは2014年秋の国労八王子の定期大会である。組合の推薦を頂いて、以後4年半にわたりお世話になった。労働組合の大会というものに参加したのは国労八王子が初めてで、「国労」という文字が大きく染め抜かれた深紅の旗の前に立たせて頂くと、いつも自然と背筋が伸びる思いがした。国労。国鉄労働組合。70年以上の歴史を誇る伝統と格式ある労組である。組合員の皆様は現役の皆様も退職者の方々も本当に温かく頼もしい人ばかりで、社民党の私にとって「ホーム」と感じさせて頂ける場所だった。

1982年に国鉄に入社した横森さんは、組合専従の活動家として長年リーダーシップをとって来られ、国労本部の青年部長まで務め上げた人である。硬派で実直で、とても真面目なかただった。私を含む社民党三多摩の1期生議員(小平の中江みわ市議、調布の榊原登志子市議、多摩市の伊地智恭子市議、国分寺の星逸郎市議)にとって、頼りになる兄貴分のようなかたで、交運労協のように多くの労組からなる大きな組織の集まりの際には、横森さんの姿を見つけてほっとしたものだった。

お通夜とご葬儀には数百人の弔問客があり、全国から弔電が寄せられた。私は国労役員の皆様のご厚意でお手伝いをさせてもらえることになり、熊田副委員長のご指導のもと、「地域共闘」(業界団体・組合関係、政党関係者など)の受付を担当していた。仕事関係者のかたのうちでも多くの方が弔問簿の「故人との関係」欄で「会社」や「業界」ではなく「友人」にマルをつけておられ、横森さんの人柄、人望が垣間見える一幕もあった。

不思議だったのはご葬儀の会場で、横森さん本人が「あずさ議員、ご苦労さんです」といつものようにシャキッとした姿勢で奥から現れるような気がずっとしていたことだ。「あ、横森さんお疲れ様です」と挨拶をして、そして家に帰るとこれまたいつものように、「佐藤あずさ議員殿 本日はお忙しいなかありがとうございました」と几帳面なお礼メールが届くような気がしていた。今日も横森さんがしっかりと場を仕切っているような、そんな感覚が抜けなかった。ご葬儀の日にお隣で一緒に受付係をしていた組合員のかたも、「いやあ、きちんとやらないと、横森さんに怒られちゃうかもしれないですから」と静かに微笑みながら頭を掻いておられた。みんな、横森さんがいなくなったなんて全然実感がわかないのだった。

荼毘が終わるのを待つ時間に横森さんの幼なじみの皆さんともお話しができた。八王子市立第七中学校の同級生の皆さんは、私の知らない少年時代の横森さんの素顔を数々の思い出とともに語って下さった。ボクシングが大好きで、モハメド・アリの物まねが上手だったこと、サッカーや野球が好きだったこと、前髪が持ち上がっていて額がのぞいていたので「デコ」というニックネームだったこと、いつも手の甲を口元に持っていく癖があったこと、照れ屋で女子とはあまり話をしなかったこと、別れ際はいつも「あばよ」と言って帰って行ったこと……。国労八王子で書記をしておられる佐藤さんが「ああ、いまもそんなところがありますね。照れ屋でね…」と微笑みながら頷く。意外なエピソードに「そうなんですか」と相槌を打つと、幼なじみの皆さんは「ええ。そんなことがありました。なあ、デコ!」と遺影を振り返った。明るく楽しい仲間に囲まれて青春時代を過ごされたのだなと温かな気持ちでお話を伺った。

また、国労の田中委員長をはじめとする仲間の皆さんが語る横森さんの姿は、私も馴染みのある硬派な活動家としての横顔だった。演説がうまく、声が大きかったこと。面倒見がよく優しい性格だったこと。指導者としての厳しい一面もあったこと。決断力に優れ、怯まない人であったこと。ゴルフが不得手だったこと。何か文章を書いたりするときにはマルクスの著作から引用をすることもあったこと……。「棺に、マルクスとか何冊も本が入れてありましたね。そんな知的な一面があったとは知らなかったな」。幼なじみのかたがしみじみとつぶやいたとき、荼毘が終わったという知らせが入り、みなゆっくりと椅子から立ち上がった。横森さんという人の人生の前半と後半とがつながったような、そんな時間だった。

ご遺族のかたの悲しみは想像を絶するものだろう。収骨が終わり、葬儀場の玄関で私たち弔問者に深々と一礼されるご遺族の皆様のお姿を見ていたら、ああ、横森さんは本当に逝ってしまわれたのだなと唐突に寂寥感が襲ってきた。同時に、いくつもの思い出が次々に蘇ってきた。公共交通利用マナー向上のキャンペーンで一緒にティッシュ配りをした日、反核平和の火リレーのランナーをして市役所に平和推進の要請に行った日、駅前で座り込み行動をした日、議会質問の資料を持参して公共交通と都市計画との関係についてアドバイスをもらった日、市民相談をJRに取り次いでもらった日、仲間内で急病人が出てお見舞いに行った日……。
4年半のあいだに沢山の場面で一緒に活動をさせて頂いた。おしゃべりな私がああだこうだとやかましく話しかけると横森さんはいつも「そうだな」「おお、悪いな」と短く返事をした。あまり自分のことを語らず、一方で人のことをよく見ていてさり気ない気配りのできるかたであった。

一度、八王子駅の駅ビルにある文房具店でばったりお会いしたことがあった。ご親族のかたが結婚されるとのことで、ご祝儀袋を買いに来たのだとおっしゃっていた。確か結婚されるご親族が女性のかたとのことで、横森さんはカラフルなご祝儀袋コーナーの前で険しい顔で迷っておられた。「どれを買うんですか」と尋ねると「いっぱいあって迷うな」と真剣に考えておられた。私は、おいくつくらいのかたですか、どんなかたなんですかなどと質問し、「じゃあこれなんかいいんじゃないですか」とお節介をやいた。横森さんは「これだとちょっと派手だな」「ああ、こういうイメージかもな」と言いながらいくつか手にとって眺めた後、綺麗なご祝儀袋をひとつ選び、「悪いな。助かりました。ありがとな」と片手を上げて挨拶するとレジへ向かった。硬派な横森さんの意外な一面を見た気がして、その日は一日、何だか嬉しかったのを覚えている。

書記の佐藤さんの話によれば、横森さんは亡くなったお母様のお墓参りにも、お花を持ってよく行かれていたようだ。「花を持って墓参りをすると競馬に勝つんだ」と言い訳をしていたそうだけれど、これは横森さん流の照れ隠しだったのだろうなと思った。横森さんは4年前の選挙の際に、当時まだ元気でおられたお母様を車に乗せて一緒に投票へ行き、親子で私に投票して下さったのだった。お母様のご葬儀に伺ったときのこともまだ記憶に新しい。今頃、お母様と久し振りに会ってどんな話をしておられるのだろう。

葬儀場のそばでは桜が咲いていた。満開の桜。私は源氏物語の一場面を思い出した。藤壺が亡くなって悲しむ光源氏が古今集の和歌を口にする場面である。「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは墨染めにさけ」。桜よ、もし心があるのならば今年だけは喪服の色に咲いてくれ、という歌だ。昔高校生の頃にこの歌を知った時は、自分もこんな気持ちで桜を見ることってあるんだろうか、桜の季節のお別れって寂しいだろうな、などと漠然と思ったが、これからはきっと毎年桜を見上げるときに、横森さんのことを思い出すのだろう。桜の舞い散る日に横森さんは旅立って行かれ、私たちはこの季節の中に置き去りになったのだ。

横森利幸氏というひとりの活動家がこの世から去った。国鉄が中曽根内閣のもとで分割民営化される5年前に18歳で入社をした、最後の国鉄世代。激動の時代に多くの組合員のリーダーとして現場を取り仕切り、上の世代からも同世代からも信頼の厚かったという人物。分割民営化後も組合専従で労働運動に人生を捧げ、地域で多くの政治家を議会へ送り、その選挙や活動を支えた。私がトップ当選をすることが出来たあの選挙においても、横森さんは大きなお力を貸して下さった。他の会社、組織の皆さんからも信頼され、業界でも存在感のあるかただった。

私は、こんな人に応援してもらっていたのだということを、生涯の宝物としたい。横森さんが一度だけ私を褒めて下さったことがあるが、それは立憲民主党が結党されたあの2017衆院選の翌年、国労の行事で私が「社会民主党の佐藤あずさです!」と大きな声で挨拶をしたということに対してだった。「社民党が小さくなっていくと、自分が社民党の議員であるということをあまり言わなくなる人もいる。過去にもそういう人がたくさんいた。特に新しい勢いのある党ができると、揺れてしまう人はいる。でもあなたは、自分は社民党なんだと迷いなく堂々と宣言した。私はそのことが、本当に嬉しかった」。
横森さん、そんなこと当たり前だよ、そんなことで横森さんは喜んでくれるの、なんだかとても申し訳ないよ、私はそんなふうに答えただろうか。はっきりとは覚えていない。

横森さん、私は議員を引退してしまうけれど、横森さんはそのことを知ってからもずっと味方でいてくれた。リフレッシュして自分を大事にして下さい、あずさ議員!と言葉をかけてくれた。変わらず仲間として迎え入れて下さった。情けない私は横森さんに何の恩返しもできないまま、本当のお別れをすることになってしまった。私はこれからも、働く者の権利と生活が守られる社会のために、平和と民主主義を守る闘いを続けていくために、新しい手段の獲得を目指して頑張るから、どうか見ていてください。

横森さん、横森さんのことをずっと忘れない。私に活動家としての誇りと仲間を思うこころを教えてくれた横森さんのことを、これからもずっと、尊敬しています。またみんなで秋川にバーベキューに行きたかった。お別れだなんてまだ信じられない。横森さんが机に飾ってくれていた写真のなかのあの日のように、台風一過の河原で静かに微笑んでいる横森さんに、また会えたらいいのに。

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