あずさジャーナル
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父を思う

2019.03.26

春になると父のことを思う。
父が亡くなって既に10年以上の時が流れた。亡くなる前の数年間は離れて暮らしていたので、最後の思い出らしきものはない。思い出すのは、車を運転したりテレビを見たりしている後ろ姿と、新聞を読む横顔である。

父は地方公務員だった。自治体職員として、建設・土木の分野で長年仕事をしていた。いまでいえば「都市計画」の仕事だろう。私が八王子市議会で都市環境委員会の委員になってすぐの頃、自宅で都市計画関連の本を読んでいたら、田舎から上京して我が家に滞在していた母がぽつりと、「お父さんも同じような仕事をしておったなあ」とつぶやいた。母は自分からは父のことを殆ど語らないので、私もあまり父について話すことはない。意外に思って「そうだったっけ」と返事をしながら、同時に突然、父にまつわる沢山のことを思い出した。

小学校の低学年だった頃、学校の宿題で「お父さんお母さんのお仕事についてインタビューしてきましょう」という課題が出た。毎日帰宅の遅かった父と話せるのはほとんど週末だけだったので、日曜日に趣味の畑仕事に出かける前の父をつかまえて「インタビュー」をした。農作業用のジャージに着替えて汗止めのタオルを額に巻いた父は面倒くさそうにしていたが、私が「お父さんがどんな仕事をしているか聞いて発表しないといかん」と言うと、真面目な顔になってこちらに向き直った。「お父さんの仕事か。お父さんは、議員のしゃべることに返事をするためにいろいろやっている」。「よくわかんない。お父さんは“ギイン”ていう仕事なの?」「そうじゃない。お父さんは“ギイン”ていう人たちが色々聞いてくるから、いまはその関係のお仕事だ」「もうちょっとわかりやすく言って」「まず、お父さんがやっとる仕事にはギインていう人たちが色々…」「お父さんは何ていう名前の仕事なの」「公務員」「公務員てなに。お母さんは高校の先生だけど、お父さんは公務員でなんていう名前の仕事なの」‥‥‥そんなやりとりを何度か繰り返し、短気な私は「わかった。もう大丈夫」とインタビューを切り上げて宿題を無理やり終わらせてしまった。家にいる時には大雑把でいい加減な性格に見える父には意外と几帳面で真面目なところがあって、今思えばあの時、「普段はこういう仕事だが、まさにいまはこういう仕事内容で」ということを丁寧に説明しようとしたのだろう。この頃父がいたのは恐らく議会事務局で、ちょうど時期的に議会の会期中だったのだと思われる。

さて、学校で宿題の結果を発表しなければならなくなったとき、不真面目に「インタビュー」を終わらせてしまった私は困った。順番が回ってきて先生にあてられ、みんながこちらを見る中で私は必死に父の話を思い出そうとしていた。「えっと…私のお父さんは…なんか、ギインていうやつの仕事です…」。みんな、「なにそれ」という顔をしている。早熟な(?)子は「知っとる!えらい人がなるやつやぞ」などと声を上げていて、私は焦った。ちがう、そうじゃない、うちのお父さんは全然えらい人じゃないし…。苦笑した先生が助け舟を出してくれた。「あずささんのお父さんは、役所でお仕事してるのよね。公務員ね」。「あ、でも、ギインていうのも言ってました…」自分が正確に聞いてこなかったくせに正確に伝えたい思いの捨てられない私はなおも言い募ったのだが、先生は「あずささんのお父さんは『役所の仕事』」と、黒板の「インタビューの結果」欄にサッと記入して次の生徒へ話を進めた。なんとなく面白くない思いで帰宅した私はその夜、帰ってきた父に再度「インタビュー」を試みた覚えがあるが、どんな会話をしたかの記憶はない。

 

時が流れ中学生になった頃、父は自治体が進める大きな開発事業の責任者になった。私はそのときはじめて、父から名刺を見せてもらった。真新しい名刺には長々とした肩書が載っており、父は少し得意そうに「忙しくなる」と言った。思春期で反抗期真っ盛りの私は「ふーん。興味ない」と冷淡な態度をとった記憶しかないが、確かにその頃の父はそれこそ休日返上で仕事をしていた。事業に関連する資料収集だったのだろう、休みの日も研究熱心にあちこちへ出かけて遅くまで帰って来なかった。帰宅してからも頭の中は仕事一色という感じで、話しかけても生返事ということが多くなった。出張も多くなり、東京に行くこともあったようだ。東京の大学へ行きたいと当時から心に決めていた私は父の口から「東京」という言葉が出たときのことだけはよく覚えている。詳細はわからないが、出張で訪れていたのは事業に関係のある民間企業だったようだ。

(その頃一度だけ、仕事上の立場で地元テレビ局の番組に出演したことがあり、「お父さんすごいじゃん」とワクワクしてテレビを見たら、緊張のあまりやたらと瞬きをして目をパチパチさせ、上ずった声で質問に答えている父が映っていた。帰宅した父が「どうだった」と尋ねるので、「かっこ悪かった」と答えてしまったら、「お父さんちょっと緊張しちゃったよな」と気まずそうにしていた。このことは、私がNHKに入局してすぐの頃に初めて生中継の現場リポートに立った時、視聴者から「新人の記者さんの瞬きが多かった」という感想が届いて「遺伝かなあ」と気恥ずかしく思い出した。)

 

数年後のある休日、父が珍しく家で朝からぼんやりとしていた。何となく様子が変だなと思って、母にそっと尋ねると、「今日はお父さんが頑張ってきた仕事が完成の日だから」と静かに母は言った。そうなんだ、でもなんか全然元気そうじゃないじゃん、と私は思った。父は自室でぼんやりとしており、何も話さず静かにテレビを見ていた。その後ろ姿は今もはっきりと記憶に残っている。

翌日、地元紙の一面トップに大きな写真入りで、自治体が推進してきた大規模な事業の完成を知らせる報が載った。父が責任者として関わってきたプロジェクトだった。記事を追っていくとテープカットの様子も報じられており、胸に造花をつけた「偉い人たち」が紅白のテープにハサミを入れている写真が掲載されていた。父はその新聞記事をじっと眺め、長い時間をかけて読み終わると、そのまま興味を失ったように新聞を手放し、自室に戻った。母がその新聞を拾って部屋の飾り棚にそっと置くのを私も黙って見ていた。
父はその仕事の責任者からはしばらく前に外れていた。後で知ったことだが、その人事は父にとっては不本意なものだったようで、「あの日」、父は事業の完成を責任者として迎えられなかった無念をひとりでじっと噛みしめていたのだろうと思った。

 

父の思い出はそのあたりで途切れている。家族として様々な困難を経験した私たちのその後の生活のことは、この場所であれこれと書くものではないのだが、春になると私は父のことを思い出す。父がひとりで自らの感情と向き合っていたあの日は、夏の始まりの静かな休日だったはずだが、なぜか私の記憶では、当時の父のこころの動きが導くかのように、春の日の出来事だったように思い起こされる。人事が発表されるのは春先だったからだろう。

 

更に時が流れ、30歳になった私は憧れだった「東京」暮らしも10年になり、八王子市で市議会議員の仕事に就いた。32歳の時に市議会「都市環境委員会」の委員になり、開発事業や土地利用、都市計画について、委員会や本会議で質疑や討論をしている。答弁に立つ課長、部長、理事者に対して厳しい質問や批判を向けることも多く、自分でも「なんて嫌な奴なんだろう私は」と思うことがある。けれど、必死の訴えを託して下さる市民のかたのことを思えば、「やらねばならぬ」と自分を奮い立たせて調査研究をし何とか仕事をしてきた。議員は「えらい人」などではなく、市民の代弁者としての「責任を負う者」である。

私の仕事のモットーは「よりよい社会をつくるため」というシンプルなものであるから、激しい議論になろうと、それが市民生活の向上、そして行政の発展につながるなら、徹底的に発言すべき、と思っている。もちろん未熟な一期生議員であったことは反省をせねばならないが、責任の重さについては新人だからという言い訳は通用しないぞとも自戒をしてきた。先々週、任期最後の質疑を終え、いよいよ明日は本会議で新年度予算案の採決がある。私は反対討論の通告をしており、この討論への登壇が議会での最後の仕事になる。叶うなら、もう1期、2期と続けたい仕事であった。

 

質問をしている時、ふと相手の課長や部長の顔に父の面影が重なることがあった。「ギインていう人たちが色々聞いてくるから、いまはその関係のお仕事だ」。休日返上で働いていた父。家では決して仕事の愚痴をこぼさなかった父。そのことを、もっとお母さんみたいに色々話せばいいのに、と当時の幼い私は不満に思っていたが、いま思えば不器用な人だったのだろうか、それとも仕事に対しては責任感の強い人だったのだろうか、と様々な父の顔が見え隠れする。

 

やりがいのある仕事、不本意な処遇、生意気な「邪魔者」、様々な人間模様がどの職場にもある。淡々と過ぎ行くように見える職場の日常のなかにも、譲れない真剣勝負の時がある。父は私のいまの姿を、空の上からどんな思いで眺めているだろう。おいおい、と思う日もあれば、頑張れよ、と思う日もあっただろう。私はもしも父が向こう側(答弁席)に座っていたとしても、絶対に手を抜くことなく批判をするぞといつも思っていた。父もきっとそのほうが、「やれるもんならやってみろ」という思いになっただろう。そういう父だっただろう。
いまはもう、そのことを確かめるすべはないけれども。

明日は胸を張って反対討論に立つ。生意気な私の矢のような(!!言葉に苦々しい表情になる「役所の皆さん」のお顔を見るのも終わりかと思うと、胸がいっぱいになる。あと2日、最後の「会期終了」まで頑張ろう。

 

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