あずさジャーナル
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その後について/なぜ男性たちは惑うのか

2018.11.26

3.21 ◆追記

2019年3月19日に「現代ビジネス」に掲載された小野寺研太氏の勝手な「論考」(「多くの女性が、男性の気持ちを『過剰に忖度してしまう』構造的理由   私たちに必要な『想像力への想像力』という記事)には強い怒りを覚えています。

女性が自身の経験した苦しさ(男性によってもたらされたもの)について語るという事象を、これまた男性によって「これはこれこれ、こういう構造的な問題なのだ」と勝手に解釈されることの居心地の悪さというか、窮屈な思いをいま味わっているところです。

もちろん「男性は何も言ってくれるな」ということではなく、被害を受けた当事者の女性の声を男性が安易に分析したつもりになってほしくない、ということです。理解しきれていないものを既存の枠組みに位置付けて無理やり論じようとすることは議論をつまらないものにする上に、当事者の声を殺しかねない。それこそ「想像力」の問題であり、不愉快ですらある。こういう記事を安易に掲載する媒体や編集者もどうかと思う。

私がこの記事の筆者やこれに関わった人に伝えたいことは、

「自説」のために私の訴えを不正確な分析のもとで利用するのはやめてもらいたい。極めて不愉快である。「自説」を述べるのは結構だが、私の名前や文章を商業主義的な場で許可なく勝手に利用しないで頂きたい。私の経験が、そして私自身が消費される対象になったかのようで大変気分が悪い。

ということです。

こちらが訴えたことの一部が勝手に切り取られて恣意的に用いられ「構築」されることは許しがたい。個人の私的なブログなどの場でならいくらでも自由に感想を書いて頂いて構わないけれども、利用されたのは商業主義的な媒体においてである。

また、正しく分析されているならともかく、私の書いたことがこの筆者の自説の中で矮小化され(それこそ「構造化」され)、「なんだこれ」という思いになる。これが拡散されたのかと思うと失望と無力感に呆然とする。記者だったら取材をしてから書くからこういうことにはならないが、一部のコラムニストや研究者?のかたはこちらの意図を確かめもせず勝手に書くからたまったものじゃない。

(もっとも、第三者の正しい「分析」や深い洞察はこちらの苦しさを救ってくれるものであるから全ての論考を否定するつもりは毛頭ないが、少なくとも私はこの文章に救われるどころか嫌悪感を抱いている。この「感覚」は無視できない。)

私はこの4年間、自分が実体験として日々獲得してきた感覚を、あっさりと「わかった気で」論ずるコラムの筆者に強い怒りを覚えてしまいました。しかも、私が提起したかった問題が矮小化され別の問題にすり替えられている感じがして、新たなマンスプレイニングを受けたかのような嫌悪感すらありました。筆者である研究者のかたは、自分の考えを弁証するために当事者である私の感情や傷つきに無頓着であるべきでないと思います。想像力が云々と言っているご本人に想像力がないと感じています。

誰もが自由に発信できるようになった便利さを歓迎する一方で、当事者を傷つけるような安易な「論考」のあり方には違和感を抱くとともに、強い怒りを覚えています。少なくとも、一般論としてではなくこちらのことを実名で引用するならば相応の「想像力」を持って頂きたいと思いました。自分の提起したことが無力化されたかのようで、本当に悔しいです。

「自分はわかっていますよ」という書き方でこちらを傷つける人がいちばん困るしやりきれないということを、私は過去に散々、本当に散々、書いたはずなのだが。

なぜ伝わらないのか。

◆私がこの文章でもっとも伝えたかった後半部分(「日本の企業社会〜」以降)を拾ってくださるかたが殆どいないことも寂しいなと感じているところでした。この部分は私が4年間の実体験を通じて獲得した経験知によるものです。

いずれにせよ、私が男性たちの振る舞いの動機を「過剰に忖度」している、佐藤も男性たちもどっちもどっち、というミスリードが生まれる可能性のある小野寺氏の文章は断じて容認できません。彼の書き方は、私が提起した問題を別の構造に置き換えすり替えるもので、悪質と思っています。許せない。

更には、こうして「ネタ」的に他者の苦しみを消費するようなものを簡単に掲載するメディア(編集者)にも非があると思います。言葉の定義には慎重になるべきで、使い勝手の良さそうな言葉(今回のケースだと「解釈労働」)に安易に飛びつくべきではないと思います。私自身、例えば「マンスプレイニング」という言葉を用いる時には自身の経験からこのように感じているということを付記した上で使用していました。

今回の件は、どんな思いで次期選挙への出馬断念となったかも関係してくるので、黙っていられませんでした。

**********

 

◆男性たちからの接触には終わりがない

任期満了後の引退についてという文章を綴って以後、思想や立場の右左、保守/リベラルを問わず、さまざまな男性たちからメッセージやメールが届いています。

驚くのは、あの文章を読んでもなお、私に依存的な感情を抱いたり、近い距離を求めたりする男性たちがたくさんいるのだなということです。もしかすると、そうした男性たちはあれを読んでも「自分(たち)は違う」となぜか納得してしまえるのかも知れません。伝わってほしい人々にほど伝わらない、ということです。

見知らぬ男性たち(そして八王子市民ではなく他市や他県に住んでいる)からの連絡の中身は、 「あなたの引退はとても残念だ、あなたを追い詰めた男たちを情けなく思う。自分はこういう者で…」などと綴られており、途中からなぜかお説教(!)に変わっています。

さてどんな「お説教」なのか。

「つらいだろうけれどもあなたは〜するべきだった」「お疲れのようですから、すぐにでも引退して、メンタルケアに専念してはいかがでしょう?」「世の中は変わらない、自分はこんなに苦労してきた、だからあなたも〜」「あなたと私はよく似ている、私もずっと闘ってきた…」「国会議員の◯◯さんを御覧なさい、あなたもそのくらいタフでないとつとまりませんよ」「国政にはいつ行くのですか、まさか政治を諦めるのですか」「自分は◯◯組合で活動をしてきたが、あなたよりもずっとひどい目にあってきた。若いあなたが心折れるのはあまりに情けなく……」

「次は是非自民党へ!私はこういう者なのですが…あなたは売国政党にいることをまず反省なさい」「左派のダメさがわかりましたか?そもそも左派というのは……ですからあなたは愛国者となり再起すべきなのです!!」「リベラルなんてまやかしです。あなたはそもそも間違っているのです、私はあなたとどうしてもお話をする必要があると感じ……」「metoo運動なんて政権批判の道具だったんですね。我々(保守・右派)は売国運動なんかしません」「右にはセクハラや女性差別などありませんよ。左派って差別的でセクハラ体質なんですね。それがわからなかったあなたはバカですね。思想を変えたら?」「日本のためにすべてを捧げる覚悟で議員になられたのでは?その程度のこころざしなのですか?」

などなど。なかなか面白いですね。

そしてご自身の私的な悩みや、そのかたの半生、思い込みに満ちた一方的な「アドバイス」が延々と綴られた後に、話したいので連絡をするように、返事はいつでもいいのでお待ちしています、お会いしたいのだがいつ頃なら良いか、希望なら八王子まで行くので…、まずはFacebookでお友達になりたいので必ず承認してください、私の携帯番号はこちらです、いつでも電話して下さい、、云々となります。

どうしようもないくらい、まるでテンプレートのように、よく似たタイプのご連絡ばかりで驚くほど。すべて面識もない見知らぬ男性がたです。 なぜだろう。なぜはっきりと文章に綴っても、何も変わらないのだろう。 私は彼らの「精神的慰安婦」の役目をいつまで求められるのだろう、と呆然とします。

もっとも、任期満了は来年4月末であるから、それまでは状況が変わらずとも当然なのかもしれません。 「ご意見」として拝読はすべきかもしれないのですが、ご返事して教えを乞うたり諭して頂いたり、更にはお会いする必要があるのだろうかと首を傾げます。必要はないと思うのですが、つくづくわからない。彼らは私に何を求めているのだろうか。

ただ、これらは直接的な顔を合わせての関係ではなく、あくまでもメールなどといった遠い関係のものなのでまだ苦しさは小さく、当然、議員という立場上は我慢できる(しなければならない)類のものです。しかし、「伝わらなさ」には落胆と呆然とする気持ちを抑えられません。

個人の尊厳、個人の自由な考えと行動、私生活。あなたと私は別のこころ、別の生活をもっている別の人間で、あなたの思う通りに私は反応はできません、あなたの望む形の関わり方を約束できません、なぜなら私はあなたの所有物ではなく、ひとりの人間だからです、というメッセージを、いつになったら理解してもらえるのだろうと思います。 私がもし男性だったら、歳も重ねていたら、こうしたことは起きるのだろうかと、ため息をつくほかありません。

◆なぜこうした現象が起きるのか

メールチェックをすると、こうしたもののうちで特に長いものは深夜、しかも3時や4時に届いています。眠れないのかもしれない、何らかの精神的困難で救いを求めているのかもしれない、と感じます。

深夜に届くものもそうでないものも、きっと彼らにとってオープンダイアローグの場がなく、私という「窓口」に向けて綴っておられるのかもしれない、とも想像します。

誰かに自分を認めて欲しい、自分の思いを話したい、理解されたい、自分の言うことをきかせたい、尊敬されたい、という思いがあるのではないか。そしてそこには、私という個人への何とも言えない執着というか、個人的関係を求めたがっている何かが込められているので、なかなかしんどいです。

オンライン上であれ現実の顔を合わせての場面であれ、私に対し個人的に接触を重ねたがる人々によくあるのは「あなたのことを娘のように思っています」という言葉なのですが、お会いしたこともないのになぜ「娘」?!とびっくりするとともに、ああ、寂しいのだな、家族関係に何か忘れ物をしている人なのだな、と思ったりします。「娘」以外にも、「妹」や「女性の友達」、「恋人」「妻」、「部下」などの代償としての何かを求められている感覚があります。

きっと話せば近しくなりうる存在だからと思い込んでしまい、自分が諭し導いてやる、と思ってしまう。けれどその「娘」のような存在の私に反論されたり拒絶されたり、思い通りの反応が得られないと「なにを!」となって攻撃的な気持ちになる、ということなのでしょうか。

これはやはり、家父長制的な日本のこれまでの精神的風土と女性への無自覚なミソジニーに根ざしているもので、女性の社会進出と活躍を阻む男性たちの厄介な「社会意識」が顕在化したものだと考えます。これには、女性性が商品化され消費されるという日本に独特の、忌まわしい「文化」の弊害も少なからず影響しているでしょう。マスコミなどが「美人/可愛いすぎる◯◯」などといったキャッチコピーで様々なジャンルの女性の活躍をいびつに切り取り煽り立てることもその一例です。

そして私はやはり、日本の企業社会・組織社会の弊害、仕事イコール人生・家族よりも仕事優先、というスタイルの弊害、個人の価値が肩書きや所属する集団の権威によって規定されてしまう社会の弊害がいまこうして起きているのかなとも考えます。

組織から離れ(あるいはもうすぐ離れる)、行き場をなくしてしまった男性たちの承認欲求や孤独さのはけ口がない。必死に仕事をして長年人生と生活を捧げた仕事をリタイアしてみれば、地域にも確固たるつながりがない、いつしか家族との関係もわびしいものになっている、自分の居場所は、やってきたことは、と虚無感に襲われるのではないでしょうか。

自分が何者であるのかを証明する何かーー「思想」や「政治」「社会活動」がそれを満たしてくれるのかも知れないーーがないと不安に襲われ、新たな所属先や肩書き、自分が「一目置かれる」ための記号や居場所を探し求めているのかも知れません。ブログを書いてみたり、SNSをやってみたり、自伝を出そうと考えてみたり、新しくなにかグループや組織を立ち上げてみようと思い立ったり、「議員」に意見を言ってやろうと思い立ったりーー。

「わたしは何者なのか」「わたしの人生とは何だったのか」という根源的な不安がふと訪れることで、彼らは苦しんでしまうのかも知れません。それは急速な高齢化社会を迎えたいま決して他人事ではなく、私たち誰もが問いかけられる問題なのかも知れないと考えます。

そうしたことを考えるにつけ、現代において人が疎外されていくプロセスや、疎外により発露する攻撃性や依存、そうした傾向・人格を規定する社会構造をあらためて分析する価値はあると思います。 私が経験していることはその意味で決して無駄ではなく、社会病理としての資本主義社会の歪みと行き詰まり、戦後日本の発展と歪みを問い直すための具体的な手がかりになると思っています。

逸脱行動としての犯罪が社会を映し出す鏡であるように、ハラスメントは「社会意識」を顕在化させる現象です。私がこの4年間に経験したことは、今後あらたな手段を得て社会変革を目指す際に、きっと価値ある経験として糧となると信じています。

◆11.28  追記

一部マスコミへの抗議のための「積極的断筆」/ホームページ、SNSの中止について

 

◆一部マスコミへの抗議のための「積極的断筆」/ホームページ、SNSの中止について

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