あずさジャーナル
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自由と自由の衝突について

2018.02.03

マッキンタイアという人の『マルクーゼ』という本を買おうと思ったが、アマゾンのマーケットプレイスでも随分と高値。図書館にあるかなあ。
マルクーゼがどのように批判されているのか読みたいなあ。

20年前の「ソシオロゴス」に掲載されている、フロム研究をされている出口剛司先生の論文(「大いなる拒絶か,未知なる一人称か」)を読んだ。論文の内容は、マルクーゼ・フロム論争の再考。そのなかでの、「マルクーゼの解放の政治学は、寛容(tolerance)の徳をイデオロギーとして切り捨てた瞬間、自らの『主観』と『他者』への暴力にはめるたがを喪失する」という一節が頭に残る。

最近よく考えていることは、「あなたの自由」と「私の自由」に衝突があった時、一方の「正義」をもってもう一方を打ち負かすことは、時に暴力的な行為となってしまうのではないかということである。何をもって「正義」とするか、どこまでを「自由」と考えるか、決して多数か少数かで決めてはならない。
「あなたの自由」が「私の自由」を脅かす時、あるいはその逆のことが生じる時、私たちはどんなに徒労に思えても、言論によってその衝突を和らげ、調整し、「互いに自由」であれるように努力しなければならない。そこに不可欠なのは相手の存在への根源的な部分での「尊敬」である。
この3年ほどの間、仕事をするなかで、「多数派の論理」が否応なしに「私(たち)の自由」への話し合いを、「彼ら」の都合で締めくくってしまうのを幾度も経験してきた。
「あなたの自由」と「私の自由」が衝突するとき、多数であることを「正義」として振りかざしてはいけないのだ。
また、少数の側であっても、自分たちこそが「正義」であると声高に主張し続け、「寛容」を打ち捨てて先鋭化していく先には、やはり暴力的な帰結が待っている気がしてならない。
しかし「寛容」は「妥協」とは決定的に違うのだ。
私は「寛容」を育てながら、「自由」の衝突に立ち向かうことをやりたい。
政治という日常のなかでは、「寛容」も「自由を求めるための言論」も、忘れ去られてしまったような感覚が襲って来てならない。

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